Sunday, August 27, 2006

ラムネ瓶に入っていることがラムネをラムネたらしめる


≪人生食あり・ラムネ≫
 夏の昼下がり、氷水につかったラムネ瓶はノスタルジーをかき立てる。中の玉を取りたくて、うずうずしていたころを思い出す。

 湯本豪一『図説明治事物起源事典』によると、ラムネは早くも幕末に欧米から伝わっていたらしい。最初に製造したのは慶応元(1865)年、長崎の藤瀬半兵衛とする説があるが、定かではないようだ。ただ明治元年には、英国人J・ノースとW・レイが横浜居留地で、中国人の蓮昌泰が東京・築地居留地近辺で、それぞれ製造販売を始めたのは確かだという。


 当時は外国人向けの飲み物で、明治20年ごろまでは1本8銭で売られ、米2升の値段より高かったという(野村鉄男『ラムネ・Lamune・らむね』)。




 ラムネが庶民の味になるのは、なんと明治19年夏のコレラ流行がきっかけだった。東京だけで10万人の死者が出る惨事だったが、東京清涼飲料水同業組合『業界回顧史』(昭和10年)によれば、当時、東京や横浜で発行されていた「毎日新聞」に「ガスを含有している飲料を飲むと恐るべきコレラ病におかされることがない」という内容の記事が掲載されたという。人々はコレラ予防を信じてラムネを求め、業者は毎日徹夜しても間に合わない状態だった。業者は一気に増え、不良品も横行するが、値段は下がった。


 現在の玉入り瓶に切り替わったのもこのころ。それまでは瓶底がとがった「キュウリ瓶」と呼ばれるコルク栓式の瓶だった。玉入り瓶に替わり、ラムネ充填がスピードアップした。ビー玉が落ちた状態の瓶に原液とガス水を充填し、クルっと瓶を下向きにすると、ガスの圧力でビー玉が口に圧着する、というわけだ。


 ラムネはその後、阿川弘之の小説『軍艦長門の生涯』でも描かれたように、軍艦に製造器が備えられるほど、広く愛飲された。




 東京・浅草駅を出て吾妻橋を渡ると、小さな清涼飲料水メーカー「興水舎」がある。関東大震災の翌年、大正13年にラムネ屋として創業。商標は「吾妻ラムネ」だ。中小企業が多い同業者は年々減っており、3代目の神作一明社長は「東京ではウチが最も古い部類なのかも」と話す。いま造っているのはラムネ以外の清涼飲料水の方が多い。しかし、ラムネへの愛着は格別だという。


 それにしても、ラムネとサイダーはどう違うのか。実はラムネに特別な定義はなく、あの瓶に入っていることが、ラムネをラムネたらしめているらしい。ちなみに、石毛直道『ニッポンの食卓』によると、レモン風味の炭酸飲料レモネードがなまって「ラムネ」になったそうだ。


 また作家の吉行淳之介は『贋食物誌』で、ラムネに対するちょっとしたこだわりを述べている。


 「ラムネかサイダーか、ということになると、私はラムネのほうが好きだった。(略)粗悪な厚手のガラスの中にあちこち気泡が混っていて、頸(くび)の左右に深い窪(くぼ)みのある緑色の瓶のかたちが、まず好みに合う」


 「理屈はともかく、飲んでごらん」。神作社長に勧められて「吾妻ラムネ」を1本いただいた。


 シュポッ、カランカラン…。この音、この甘さ。何とも懐かしい。


 「最近は居酒屋で、焼酎を割ったりして飲まれているらしいです」。今、ラムネに心躍らすのは、子供よりも昭和を懐かしむ大人なのだろう。(黒沢綾子)

産経新聞より

 今はすぐ、ビー玉とれちゃうんだよねぇ。びんじゃなかったりするし。

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